LOGIN進学前に『奨学生候補辞退のご相談』を送ってきた時と同じ、礼儀正しく、どこか真面目すぎるほど整った文面だった。『以前、私から一度辞退のご相談を差し上げたにもかかわらず、娘が皆様のお力添えで進学の道を選べましたこと、親としても感謝しております。ただ、初めての県外での一人暮らしとなり、母親としてはきちんと食事をとっているか、勉強と生活を両立できているか、毎日気がかりでなりません。本人に連絡しても「大丈夫」としか言わないのですが、基金の面談では何か困っている様子はございませんでしょうか。連休も実習準備があると言って帰省しなかったため、少し寂しく、心配しております』 画面の文字を追いながら、私は小さく息をついた。 もし美和さんが最初から娘の進学に反対していたのなら、答えは単純だったかもしれない。けれど、メールには学費や食事を心配する言葉が並んでいた。私は返信欄を開いたまま、遥さんにどこまで伝えてよいか聞くことにした。 メールを読んでいると、美和さんが娘を心配していることは分かった。けれど、遥さんの「家を出たい」という気持ちは、まだ伝えてはいけない。 私はすぐに美和さんへ返信を書かず、まず遥さん本人の携帯電話へ連絡を入れた。 昼休みの時間帯に折り返しがあり、遥さんの少し緊張した声が耳に届く。『白鳥さん、どうされましたか』「小宮さん、授業の合間にごめんなさい。実は今朝、お母様から基金宛てにメールをいただいたんです。連休に帰省しなかったから、生活面で困っていないか心配していらっしゃいました」 電話の向こうで、遥さんが小さく息を呑む気配がした。『……お母さん、また基金にメールしたんですか。私がちゃんと返事をしないから……すみません』「お母様からご連絡がありました。面談の内容は、本人の同意なくお伝えしません。どうお返事するか、小宮さんの希望を聞かせてもらえますか」 少しの間をおいて、遥さんの声が返ってきた。『……手続きの上で問題なく通学していることだけ、事務的に返していただけますか。私が「家を出たがっていた」とか、住まいの相談をしている詳しい中身は、やっぱり言わないでほしいです。お母さんにそれを知られたら、きっと泣きながら電話がかかってきて、私、なんて言えばいいか分からなくなるから』「分かりました。では、『規約により個別の面談内容はお伝えできませんが、事
藤崎さんが議事録へその約束を素早く打ち込んでいく。ただ、先方の配信システム自体に私たちの部屋から直接鍵をかけられるわけではなく、システムが整うまでは「担当者同士のメールと文書で確認する」という仮の運用に頼るしかなかった。 打ち合わせの終盤、それまで黙って資料を見ていた征臣が、静かに口を開いた。「柏木代表。白鳥代表がここまで慎重になるのは、名前や記録の扱いで傷ついた人を実際に見てきたからです。紙の上の約束と、現場で実際に送られるファイルが食い違わないか、今の確認手順にはまだ隙があるように見える」 低く落ち着いた声に、先方の広報担当者がわずかに背筋を伸ばした。征臣は私の代わりに話を決めてしまうのではなく、隣で私の不安を裏付けるように言葉を添えてくれた。 私は征臣の横顔を見てから、柏木さんへ向き直った。「征臣さんが心配している点は、私も同じです。承認していない原稿には『使用不可』と文書で返します。六月末までにシステムを完成させることを条件に、今月から始めたいと思います」 柏木さんが頷き、私たちは条件付きの合意書にそれぞれ署名をして握手を交わした。 会議室を出て、階下の駐車場に停めた征臣の車へ乗り込むと、私はようやく肩の力を抜いてシートに背を預けた。「……さっきは、口を挟みすぎただろうか」 エンジンをかける前に、征臣がハンドルに手を置いたまま尋ねた。「いいえ。征臣さんが心配してくれた点、私も同じように気になっていましたから。勝手に提携を止めたりせず、あの場で意見を言ってくれて助かりました」 私が答えると、征臣はルームミラー越しに私の顔を見て、少しだけ目元を和らげた。「そうか。そこまで考えて決めたなら、俺は尊重する。ただ、何か引っかかったら、一人で抱えるな。すぐに言ってくれ」「はい、言います」 車が夕方の通りへ滑り出す。赤信号で止まった時、征臣がふと思い出したように声を落とした。「……仕事の条件ばかり話していたら、少し疲れたな。式の方も、君の希望をそろそろ聞きたい」 不意に話題が変わり、私は膝の上の鞄を抱え直した。「式の希望、ですか?」「ああ。大勢を呼ぶ披露宴にする気はないが、君がどんな場所なら落ち着くのか、考え始めている」 仕事モードの鋭い目から、婚約者としての少し不器用な温度に戻る。その変化が嬉しくて、私は窓の外の街路樹を見つめな
翌週の火曜日、明日灯ネットワークとの連携条件を決める打ち合わせが開かれた。 貸会議室には、柏木志穂さんと先方の担当者、こちらからは私と藤崎さん、そして法務や運営の確認役として征臣と相沢さんが同席した。 机の上に置かれた協定書を前に、私はこれだけは譲れないと決めてきた四つの条件を柏木さんの前へ差し出した。「連携を始めるにあたって、私たちの基金から四つのお約束を書面でお渡しします」 私は少し緊張しながらも、用紙の項目を順に指で辿った。「一つ目は、奨学生の名前を外部へ出さないこと。二つ目は、取材や顔写真を支援の条件にしないこと。三つ目は、広報に協力するかどうかを本人が自由に決められ、断っても支援に影響しないこと。そして四つ目は、情報の扱いを外部の監査でも確認することです」 柏木さんは条件書に目を通し、ボールペンの背を軽く机に当てた。「四つとも、原則として同意いたします。ただ、白鳥代表。先日もお話しした通り、寄付をしてくださる企業や個人へは、活動の報告が必要です。こちらの二種類の見本をご覧ください」 先方の担当者が配ったのは、二つの報告書の見本だった。 一つは『様式A』と書かれた集計タイプで、支援した人数や専攻分野の内訳、住居相談の件数だけを数字とグラフでまとめたもの。もう一つは『様式B』と書かれた個別紹介タイプで、名前は伏せているものの、どんな家庭事情の子がどうやって進学したかを短い物語のように紹介する欄が設けられていた。「私たちの基金としてお認めできるのは、数字だけをまとめたこちらの様式Aだけです」 私は迷わず様式Aの用紙に指を置いた。「様式Bのように一人ひとりの事情を書くと、名前を伏せても、学部や家族のこと、応募のいきさつから分かってしまう人がいます」 私は様式Bの見本をそっと脇へ寄せた。「広報に使うことについて、ご本人から明確な同意をもらわない限り、様式Bは出さないでください。案が届いても、私たちの確認なしに公開しないことを、書面に残していただきたいんです」 柏木さんは少しだけ考え込むように目を細めたが、やがて頷いた。「分かりました。今はまだ様式Bの具体的な原稿はありま
遥さんは袖口から指を離し、机の上で自分の手をぎゅっと握った。「本当は、家を出たかったんです。お母さんは優しいけど、食事も行き先も、就職先まで一緒に決めたがるから……苦しくて」 あの日、進学前の面談室で、彼女が私だけに打ち明けた秘密だった。『本当は、家を出たいんです』『お母さんには言わないで』。その言葉は今も、私の鍵つき棚にある面談票に『本人の希望により詳細非公開』という一行だけで守られている。「あの面談の時、白鳥さんに『お母さんには言わないで』ってお願いしましたよね。今も、お母さんは私が看護師になるためにやむを得ず県外へ出たと思っています。自分が嫌がられて家を出たなんて知ったら、お母さん、絶対に傷つくから」「はい。あの時の話は、お母様にも、ほかの方にも伝えていません。面談票にも、詳しい理由は書いていません」 私はまっすぐに遥さんの目を見て答え、手元の仮名ケース票の見本を彼女の前へ開いた。「明日灯ネットワークには、住居の相談や研修先の紹介をお願いする予定です。先方が手続きを進められるよう、管理番号を付けた実務票を渡してもいいでしょうか」 私は実務票と同意書を並べ、項目を一つずつ示した。母親から問い合わせがあった場合の扱いが、ほかの学生と少し違う。勝手に支援を取り消されたり、居場所を答えられたりしては困る。そのための注意書きも、どこまで先方へ伝えるべきか迷っていた。「大学と住まいの調整には、進学先の分野と転居の状況が必要です。それから、お母様から支援を止めてほしいと連絡があっても、あなたに確認せず手続きを変えないよう、以前の辞退相談と継続の経緯を担当者にだけ伝えたいんです。これは連絡方法を間違えないためで、広報には使わせません。どう思いますか」 保護者への対応という目的を超えて、細かな家庭事情まで渡すつもりはなかった。それでも、本人が望まないなら別の運用を考える。私は用紙から手を離し、遥さんが読み終えるのを待った。 遥さんは用紙を真剣に読み返し、頷いた。「住まいの手続きをする人には、そこまで伝えて大丈夫です。お母さんから勝手に取り消されるのも困りますし。でも、ほかの人に見せないでください。私がお母さんから
私は決裁用紙を引き寄せ、システムが整うまでの仮の手順と六月末の期限、そして万が一危ない原稿が来た時は私の判断で差し戻すことを自分の字で書き込んだ。今すぐ助けが必要な子たちの手を離さないために、書面で二重の歯止めをかけておくしかなかった。「承知いたしました。柏木代表のところは実績も豊富ですし、書面で指示を出せばきちんと対応してくださるはずです。私の方で送付フローを整えておきますね」 藤崎さんは頼もしく頷き、書類を抱えて自分のデスクへ戻っていった。 その週の木曜日、午後の面談室で奨学生を待っていると、控えめなノックの音がした。 入ってきたのは小宮遥さんだった。春から看護系大学に通い始めた十八歳。まだ高校生だった頃、面談室で制服の袖をいじっていた姿を覚えている。「こんにちは、白鳥さん。お時間いただいてすみません」「こんにちは、小宮さん。どうぞ、好きな方の椅子に座ってくださいね。大学の授業は、少し慣れましたか」 私が温かい麦茶のカップを置くと、遥さんは入口に近い椅子に腰を下ろし、少しだけ肩の力を抜いて微笑んだ。「はい。解剖学の教科書がすごく重くてびっくりしましたけど、毎日楽しいです。基金の奨学金のおかげで、教材も全部揃えられました」 基金の正式な支援台帳には、小宮遥さんの氏名と連絡先を記録している。今回、提携先へ渡すのは管理番号を付けた仮名の実務票だけだ。その票に載せる内容も、遥さんに確認してもらう。本人が同意したからといって、何でも渡していいわけではない。「今日は、明日灯ネットワークとの連携で使える、学生向けの住居・生活相談と病院実習の情報について、小宮さんの希望を聞いておきたかったんです」 私が説明用の用紙を広げると、遥さんの指先が、無意識にカーディガンの袖口へ触れた。高校生の頃からの緊張した時の癖だけれど、以前よりは動きが小さい。「お母様からも連絡がありました。大学生活を心配なさっているようですが、面談内容はお伝えしていません。小宮さんは、今後の連絡をどうしたいですか」 遥さんの母親――小宮美和さんは、進学前に基金へ『奨学生候補辞退のご相談』というメールを送ってきた保護者その人だった。 母子
月曜日の朝、基金の事務室には新しい机が一つ増え、新しく採用した事務局員の藤崎結衣さんが着任した。 二十七歳になる藤崎さんは、以前は中規模の財団で助成金の精算や報告書作成を担当していた実務経験者で、黒髪をきっちりと束ねた仕事のできそうな女性だった。「本日よりお世話になります、藤崎結衣です。報告書の整理や外部との連絡を担当いたします。よろしくお願いいたします、白鳥代表」「よろしくお願いします、藤崎さん。わからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」「代表」と改まって呼ばれることに、私はまだ少しだけ気恥ずかしさを感じていた。それでも、山積みになった申請書類や外とのやり取りを前にすれば、彼女の存在は本当に心強い。 藤崎さんは初日から驚くほどの速さで仕事を覚えていった。少し早口でテキパキと書類を仕分け、昼過ぎには早速、明日灯ネットワークとの連携手順で気になる点をメモにして私の机へ持ってきた。「代表、明日灯ネットワーク様との共同事業について、一つ確認してもよろしいでしょうか」 藤崎さんは手元の手順書を指差した。「外向けの活動報告を出す際、うちの基金と先方の両方が画面上でOKを出さない限り配信できない『二重ロック』の仕組みが、まだ完成していないんです」 藤崎さんが示したのは、先方の配信システムと私たちの事務室のやり取りをまとめた図だった。「システムの工事が終わるのを待つと、連携を始められるのが夏以降になってしまいます。そうすると、この春に入学したばかりの奨学生への住居相談や研修紹介もすべて遅れてしまいますが、どういたしましょうか」「夏まで待つと、今住まいやアルバイトで困っている子たちの相談に間に合いませんね……」 私は手順書と、手元の奨学生たちの面談予定表を見比べた。 地方から出てきたばかりの学生たちにとって、安全な学生マンションや病院実習の窓口は今すぐ必要な助けになる。けれど同時に、佐伯さんから言われた「手続きのほころび」という言葉も胸の奥に引っかかっていた。「藤崎さん。その二重ロックが六月末に完成するまでの間、仮のルールとして、外へ出す原稿は必ず事前にメールと書面でこちら