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第146話 微笑む会長

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-09-08 06:01:07

 鍵へ手を伸ばす前に、壇上の宗一郎と目が合った。

 ほんの一瞬だった。けれど、彼の笑みは、私の足元に何が落ちたのかまで知っているように見えた。

 紗英は正面を向いたまま、唇だけを動かす。

「拾って」

 私はナプキンを落としたふりをして屈んだ。

「あなたのものですか」

「私が持っていたら、出る前に見つかります」

 青い糸のついた鍵は古く、頭の部分に〈B3〉と刻まれていた。存在しないと案内された、研究棟地下三階。

 ナプキンで包み、鞄の底へ入れる。金属が口紅のケースに触れ、硬い音がした。近くの客が振り返ったが、紗英はグラスを持ち上げて視線を遮った。

 宗一郎の挨拶が終わる。

 各テーブルを回っていた彼は、私たちの前へ来ると、空いた手を母の椅子の背へ置いた。

「座り心地はいかがですか」

「母は、この席で何を見つけたんでしょう」

「昔のことです。すべては覚えていません」

 目元の皺も、声の柔らかさも変わらない。

「母の性格は覚えていらしたの
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     鍵へ手を伸ばす前に、壇上の宗一郎と目が合った。 ほんの一瞬だった。けれど、彼の笑みは、私の足元に何が落ちたのかまで知っているように見えた。 紗英は正面を向いたまま、唇だけを動かす。「拾って」 私はナプキンを落としたふりをして屈んだ。「あなたのものですか」「私が持っていたら、出る前に見つかります」 青い糸のついた鍵は古く、頭の部分に〈B3〉と刻まれていた。存在しないと案内された、研究棟地下三階。 ナプキンで包み、鞄の底へ入れる。金属が口紅のケースに触れ、硬い音がした。近くの客が振り返ったが、紗英はグラスを持ち上げて視線を遮った。 宗一郎の挨拶が終わる。 各テーブルを回っていた彼は、私たちの前へ来ると、空いた手を母の椅子の背へ置いた。「座り心地はいかがですか」「母は、この席で何を見つけたんでしょう」「昔のことです。すべては覚えていません」 目元の皺も、声の柔らかさも変わらない。「母の性格は覚えていらしたのに」 宗一郎はワインの向こうから私を見た。「人は、事実より印象を残すものですよ」 視線が胸元へ落ちる。「その鈴も、菜月さんが大切にしていた」 母のものだと知っている。けれど、いつ、どこで見たのかは言わない。「母が使われた薬については?」 隣席の会話が止まった。フォークが皿へ触れる音だけが残る。 宗一郎は声を落とさなかった。「医療判断は担当者に任せていました」「研究棟から運ばれた薬でも」 紗英の指がグラスの脚を滑った。 宗一郎の目が娘へ移る。「白鳥さんはお疲れだ。別室をご案内しなさい」 休ませる、という形で席から外すつもりなのだ。 私は椅子を引いた。「帰ります」「まだ料理が残っていますよ」「母も食べなかったそうですから」 笑みは残った。目元だけが、初めて動かなかった。 出口へ向かう背中へ、宗一郎の声が届く。「菜月さんは最後まで娘を守ろうとし

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     乾杯のあと、財団の沿革をまとめた映像が始まった。 建て替えられた病棟。治療を受けた子どもたち。寄付者の名前が光の中を流れ、最後に創設期の一覧が映る。 白鳥菜月。 母の名の横には、〈共同事業発起人〉とあった。 手元の冊子をめくる。これまで公表されてきた資料では、母は一寄付者としてしか記録されていない。発起人という肩書きは、どの書類にもなかった。「母は、財団の事業を作ったんですか」 宗一郎はワイングラスを置いた。底がテーブルへ触れる音だけが、妙に明瞭だった。「初期に意見を頂きました。若い方らしい、理想の多いご提案でした」「なぜ肩書きが変わったんですか」「記録は、事業の実態に合わせて整理されます」 消した、とは言わない。 隣から、皿へ向けられた視線を感じた。「召し上がらないのですか」 紗英だった。「食欲がありません」「菜月さんも、この席で同じことをおっしゃいました」 フォークへ伸ばした指が止まる。「いつですか」「亡くなる一か月ほど前です。顔色が悪くて、料理にはほとんど手をつけなかった」 病気で判断力が落ちていたと語った人が、その夜の母の皿まで覚えている。 ナプキンを膝から外すと、縫い目の内側で硬いものが指に当たった。周囲の視線を避け、二本の指で薄い紙を引き出す。 古いメモ用紙だった。 母の字で、数字が三つ並んでいる。 三。十一。四十七。 椅子の傷、映像に戻された肩書き、グラスの底の青い線。誰かが、母の残したものをこの席へ集めている。 紗英の視線が手元へ落ちた。「何かありましたか」 紙を掌へ畳み込む。「ナプキンの糸が出ていただけです」 声に笑みを混ぜる。紗英の視線は一度だけ私の手元へ落ちた。それでも、何も聞かなかった。 メモの末尾に、一文字だけある。 K。 母の告発原稿から削られた宛先と同じ文字だった。 照明が落ち、壇上の宗一郎が医療支援の未来を語り始める。「誰もが

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     晩餐会へ出席するかどうかを決める会議で、意見は三つに割れた。 相沢は招待状そのものが誘導だと言い、彩花さんは内部資料へ近づける機会を捨てるべきではないと主張した。蓮は、榊原側が私を人前で取り乱させ、母と同じ「不安定な女」に仕立てる可能性を指摘する。 征臣だけが、会場図の上へ指を置いたまま黙っていた。「あなたは?」 私が聞くと、視線が上がった。「行かせたくない」 部屋の空調音が、急に大きくなる。 以前なら、そこで話は終わっていたかもしれない。警備上の判断、という名前をつけて。 征臣は会場図を閉じかけ、手を止めた。「止めても、君は行くんだろう」「行きます」 母が最後に座った席を見たい。榊原家が何を見せ、何を隠そうとしているのか、自分の目で確かめたい。 そこまで説明すると、蓮が腕を組み直した。「俺も入る」「招待は一名です」「鷹宮側の同伴者で通す」 征臣の声が重なった。 二人が会場図へ身を寄せる間に、私は招待状を手元へ引いた。「中には、一人で入ります」 三人の顔が上がる。「外にいてください。連絡も取れるようにします。でも、会場で誰かの婚約者や代理人の席へ座るのは嫌です」 自分の名前で届いた招待状だった。罠でも、その名前まで誰かの肩書きへ戻したくなかった。 相沢が危険性を説明し始める。私は遮らず、最後まで聞いた。警備導線、監視死角、退出時の合図。聞いた上で、招待状を鞄へ入れた。 征臣の顎がわずかに固くなる。「入口までは行く」「……はい。そこまでは、お願いします」「出る時は連絡しろ」 命令に近い語尾だったが、会場へ入るなとは言わなかった。 退出の合図は、銀鈴を二度鳴らすことになった。一度なら問題なし。二度で迎えに来る。鳴らす余裕がない場合に備え、母の指輪の内側へ小さな発信器もつける。 装着すると、指輪が以前より重く感じた。「重いです」 征臣の指がすぐ留め具へ伸び、途中で止まった

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     翌日、高城運送の旧倉庫で見つかった箱は空だった。 底には白い粉が薄く残り、側面に榊原財団の旧ロゴが焼きつけられている。いつ、何を運んだのかは分からない。蓮が工具を差し込み、底板を持ち上げると、木と木の隙間から封筒の角が現れた。 宛名は高城和臣。差出人は榊原紗英。 〈今後の配送については、父ではなく私へ直接報告してください〉 日付は、母が亡くなる半年前だった。「ずっと前から関わっていたんですね」 私の声に、征臣は返事をせず、封筒の糊が剥がれた跡を見ていた。蓮が証拠袋を用意し、彩花さんが粉を採取する。袋には番号が振られ、採取時刻が読み上げられた。感情を挟む余地はなかった。 外へ出る頃には日が落ちていた。 蓮は旅館へ戻り、彩花さんは資料を持って解析室へ向かった。車の後部座席で一人になると、私は財団の晩餐会を知らせる記事を開いた。 昔の写真に、征臣と紗英が並んでいる。どちらも笑っていない。黒い服、まっすぐな姿勢、背後に並ぶ家名。写真の中では、二人の間に説明のいらない線が引かれていた。 画面を閉じる前に、征臣が気づいた。「何を見ている」「昔の写真です」「消していい」「私の端末です」 言葉が重なり、征臣が眉を寄せた。「端末の話ではない」 分かっていた。私は画面を伏せた。「……やっぱり、似合っていますね」「誰が」「あなたと紗英さんが」 自分で言っておいて、幼いと思う。けれど、撤回するのも負けたようで口を閉じた。 征臣は窓へ背を預けた。「並んで写っただけだ」「そうですね」 肯定した声が、少しも納得していないことを自分でも聞き取れた。 信号で車が止まる。赤い光が車内へ入り、伏せた画面の縁だけが明るくなった。「俺は、君が隣にいる方がいい」 飾りのない一言だった。 顔を上げられず、端末の上へ手を置く。青信号へ変わって車が動き出しても、指先だけが画面を押さえていた。 記事には、二人が幼い頃から家族ぐる

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     紗英が出ていったあとも、テーブルには紅茶の匂いが残っていた。 名刺の下辺に引かれた青い線は、研究棟の地下廊下で見たものと同じ色だった。印刷会社が選びそうな青にも見える。そう思って名刺を裏返したが、指はそこから離れなかった。 征臣は冷めたカップを端へ寄せ、紗英が置いていった資料を閉じた。「昔、縁談があったんですね」 問いかけるまでに、妙に時間がかかった。「あった」「どちらから?」「両家だ。大学を出た頃、父が話を進めた」 返事は短い。こちらを見ないのは、隠しているからなのか、ただ過去の話だからなのか、今の私にはまだ見分けがつかなかった。「紗英さんは」「反対はしなかった」 そこで征臣の指が資料の角を押さえた。「俺は断った」 理由を聞こうとすると、先に言葉が続いた。「家が決めた相手と、そのまま結婚する気はなかった」 目の前にあるのは、彼が差し出した契約婚約から始まった関係だ。私が黙ったせいで、征臣も同じところへ気づいたらしい。「君の時とは違う」「最初は、ですね」 言ってから、カップの水面を見た。言葉だけが先に出て、胸の奥が遅れて熱くなる。 征臣の視線が止まった。「……今も、私を白鳥家から出すためだけですか」 名刺の青い線を爪でなぞる。顔を上げれば、返事を待っていることまで見透かされそうだった。「もう、それだけではない」 低い声が落ちた。 その先へ進む前に、征臣の端末が震えた。高城運送の旧倉庫で、榊原財団の封印がついた箱が見つかったという。蓮の声が漏れ、室内の空気が仕事へ戻る。 征臣は立ち上がりながら指示を出した。私は名刺を鞄へ入れた。さっきの返事までしまい込んだようで、ファスナーを閉じる手が一度止まった。 車寄せへ向かう廊下の先に、紗英がいた。ホテルの役員と話し、相手の言葉に自然な角度で頷いている。隣に征臣が立てば、古くから両家を知る人間には何の違和感もないのだろう。 似合う。 その言葉を消そうとして、やめた

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